和暦 | 新暦 | 月日(宣明暦) | できごと |
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天文11年 | 1542年 | 12月26日 | 生誕 |
永禄3年 | 1560年 | 5月19日 | 桶狭間の戦い |
永禄5年 | 1562年 | 1月15日 | 清洲城を訪問。織田信長と同盟結ぶ。 |
元亀元 | 1570年 | 6月28日 | 姉川の戦い |
元亀3 | 1572年 | 12月22日 | 三方ヶ原の戦い |
天正3年 | 1575年 | 5月 | 長篠の戦い |
天正10年 | 1582年 | 6月2日 | 本能寺の変 |
天正12 | 1584年 | 2月27日 | 従三位参議 |
3〜4月 | 小牧・長久手の戦い | ||
10月27日 | 大坂城で、豊臣秀吉に臣従 | ||
慶長5年 | 1600年 | 9月15日 | 関ヶ原の戦い |
慶長8 | 1603年 | 2月12日 | 右大臣。征夷大将軍宣下・源氏長者宣下。 |
10月16日 | 右大臣辞任 | ||
慶長10 | 1605年 | 4月16日 | 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任 |
慶長19年 | 1614年 | 方広寺鐘銘問題。大坂冬の陣へ発展 | |
元和元 | 1615年 | 7月17日 | 禁中並公家諸法度制定 |
7月 | 武家諸法度制定 | ||
大坂夏の陣 | |||
元和2 | 1616年 | 3月17日 | 太政大臣 |
4月17日 | 死去 |
徳川家康は、三河国の国人出身の松平氏第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大の方で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。
家康がまだ元康と名乗っていた永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入り、今川氏から自立を果たす。永禄5年(1562年)には義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。
6月2日、徳川家康が堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こったが、家康の供は小姓衆など少人数だったので、きわめて危険な状態だった。このとき、家康は服部半蔵の進言により伊賀越えを決行し、伊勢の国から海路三河にかろうじて戻った。その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。
天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母の大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が密かに家康に会い、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城で秀吉と謁見して秀吉に臣従した。
秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。
慶長5年(1600年)9月15日午前8時、美濃関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山の小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかる。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、ここに関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わった。
徳川家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各地の大名に預けていた領地がなくなった。その結果として豊臣氏は摂津・河内・和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。
関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。将軍になれるのは清和源氏でなければならないという決まりもあった。そこで家康は、神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。
慶長10年(1605年)4月16日、家康は三男の徳川秀忠に将軍職を譲って、以後は徳川氏による将軍職の世襲を確実なものとした。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。しかし、豊臣家の権威が大きく傷ついたことはいうまでもない。
徳川家康は、慶長12年(1607年)からは駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。
慶長19年(1614年)、最晩年を迎えた家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始する。
豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建し、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつけた。「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」である。家康は国家安康を家康の名を分断して呪詛する言葉とし、君臣豊楽、子孫殷昌を豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに右僕射源朝臣については、家康を射るという言葉だと解釈したのである。これは完全な言いがかりであり、右僕射源朝臣の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。
さらに家康は8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行なわせた。その結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。
これに対して豊臣方は家老の片桐且元と鐘銘を作成した清韓を駿府に派遣し、弁明を試みた。ところが家康は会見せず、清韓を拘束し、且元を追い返した。且元は秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣方は拒否。そして、9月26日に片桐且元が家康と内通しているとして豊臣氏から追放されると、豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、大坂方に宣戦を布告したのである。
慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂攻めの途についた。そして家康は20万からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、難攻不落である大坂城を力攻めで落とせるわけが無いことを承知しており、力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行なうにとどめた。
12月4日に行なわれた真田丸攻めでは、真田信繁(幸村)の前に大敗を喫したが、、家康はこの程度の敗戦を気にすることも無く、12月9日に新たな作戦を始動する。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は、12月19日、家康に和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。というより、家康の脅迫に近かった。実は家康は、和睦の話し合いが行なわれている最中も、大坂城に砲撃を行なわせていたのである。
和議の条件は、大坂城の総堀を埋め立てるというものであった。ところが家康は、12月23日から2日で総堀を埋め立てた後、12月25日には腹心の本多正純に命じて大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立てさせたのである。これに対して豊臣方は詰問使を家康のもとに送ったが、家康は聞く耳を持たず、慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となったのである。
豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとした。ところが、家康は、それを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に徳川義直の婚儀の為と称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始した。 5月8日、豊臣秀頼と淀殿、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。
徳川家康の死因は、鯛の天ぷらによる食中毒か毒を盛られて殺害されたとする説があるが、鯛と言うめでたい魚が死因とは縁起でもないと、フグ中毒説もある。鯛の天麩羅死亡説は、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌と考えられる。 辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」を詠んだ。
徳川家康の歴史・年表では徳川家康の誕生日から墓・血液型などのプロフィールまで、また徳川家康の絵・画像・肖像画写真、その一生・人生、性格、遺訓や家訓・人生訓・名言・格言・辞世の句などの語録から、徳川家康の生きた時代にスポットを当てて年表風に生涯を説明しています。
徳川家康の家系図や子孫、家紋だけでなく、尊称といったことについて人物像を浮き彫りにしています。徳川家康の生年月日や子供、本や顔、妻(正室・側室)など、日本史でも重要な徳川家康についてのエピソードや業績、秘密の少年時代などwikiからまとめています。大河ドラマでもよく行われる徳川家康の生い立ちや亡くなった日、戦い方や子供時代・家系や城・趣味といった裏話を公開中です。